Share

第二十五話 帰還命令

last update publish date: 2026-08-21 18:00:42

 北方砦に朝が来た。

 灰を含んだ薄い雲の隙間から、弱い陽光が差し込んでいる。

 窓の外では、兵士たちが慌ただしく動いていた。

 救出された村人たちの手当て

 黒霧の残滓の調査

 ミルカ村周辺の封鎖

 霧狼が消えたとはいえ、すべてが終わったわけではない。

 むしろ、これから始まることの方が多かった。

 リリアは医療室の寝台で上体を起こし、窓の外を見つめていた。

 身体はまだ重い。

 胸の奥が空っぽになったような感覚も残っている。

 けれど、昨夜よりはましだった。

「……動けそう」

 小さく呟いた瞬間。

 隣の寝台から低い声がした。

「動くな」

 リリアはぎくりと肩を揺らした。

 見ると、レオンが目を開けていた。

 包帯を巻かれた上半身に黒い上着を羽織り、寝台の上で半身を起こしている。

 顔色は悪い。

 だが、瞳はいつも通り鋭かった。
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む   第六十五話 ただいまと言える場所

     それから、三年の月日が流れた。 王都の朝は、かつてより少しだけ騒がしく、そして少しだけ開かれたものになっていた。 大通りの一角には王国公共記録院へ向かう人々の列ができ、地方から訪れた商人や旅人の姿に混じって、古い書類を胸に抱えた老人や、家族の手を引く若者たちが行き交っている。以前なら王宮の許可がなければ閲覧できなかった記録の多くも、いまでは定められた手続きを踏めば、身分にかかわらず確認できるようになっていた。 王家にとって都合の悪い歴史も、黒霧事件の記録も、銀狼公爵家へ長年押しつけられてきた役割も、少しずつ人々の目に触れるようになっている。 もちろん、それですべてが上手くいったわけではない。 新たな記録が公開されるたびに怒りが生まれることもあった。過去を掘り返すべきではないと主張する者もいれば、まだ何か隠されているのではないかと疑う者もいる。新王の改革を急ぎすぎだと批判する貴族もいれば、逆に遅すぎると声を上げる民もいた。 国というものは、誰か一人が正しいと決めた瞬間に美しく変わるものではないのだろう。 それでも、以前とは確かに違う。 王が一言命じれば記録そのものを消せた国ではなくなった。間違いがあれば誰かが声を上げ、その声は記録に残り、残されたものを未来の誰かが確かめることができる。 忘れない国ではない。 忘れてしまっても、思い出せる国。 リリアたちが忘却の海から持ち帰ったその考え方は、三年かけて少しずつ王国の形になり始めていた。     ◇「リリア先生、次の患者さんです」「はい。どうぞ」 公爵邸の一角に作られた診療所で、リリアは手元の診療記録を閉じた。 もともとは来客用として使われていた小さな別棟を改装し、診察室と調薬室、それに薬草研究室を作ったのは、結婚して半年ほど経った頃のことだった。 公爵家の施設ではあるものの、利用できるのは貴族だけではない。領民であれば誰でも診察を受けることができ、事情によっては診療費も減免される。 窓の向こうには薬草園が広がっていた。

  • 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む   第六十四話 何度忘れても、あなたを選ぶ

     婚礼の日の朝、リリアは目を覚ました瞬間、自分がどこにいるのか分からなくなった。 見上げた天井は、もうすっかり見慣れた公爵邸のものだった。窓の外から聞こえてくる鳥の声も、廊下を行き交う使用人たちの足音も、普段と何ひとつ変わらない。 それなのに、胸の鼓動だけが妙に速かった。 寝台の上で何度か瞬きを繰り返し、ぼんやりとした頭が現実に追いついた時、リリアは思わず布団を握りしめた。「……今日なんだ」 声に出した途端、急に実感が押し寄せてくる。 今日、自分はレオン・ヴァルハルトと結婚する。 王命で決められた婚約でもなければ、深淵を封じるための契約でもない。月華の力を利用するためでも、誰かを救うためでもない。 自分が望んだから。 そして、レオンも望んだから。 ただそれだけの理由で、二人は夫婦になる。 それが、今のリリアには何よりも不思議だった。 銀狼公爵との婚約を初めて知らされた日の自分に、この未来を教えてやったらどうするだろう。 きっと信じない。 それどころか、全力で逃げ出そうとするに違いない。 そんなことを考えていると、勢いよく扉が開いた。「リリア様!」 飛び込んできたミアの声に、リリアは思わず肩を跳ねさせた。「起きていますね!? 寝坊していませんね!? 体調は大丈夫ですか!? 熱はありませんか!? お腹は痛くないですか!?」「だ、大丈夫です」「本当に?」「本当です」 疑うような目を向けながら、ミアはリリアの額へ手を当てた。熱がないことを確かめると、ようやく胸を撫で下ろす。「よかった……。もし今日リリア様が熱でも出されたら、旦那様が結婚式そのものを延期しかねませんから」「まだ旦那様ではありませんよ」「あと数時間です!」 間髪入れずに返され、リリアは思わず笑ってしまった。 その後ろから、ゆっ

  • 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む   第六十三話 王冠の先にあるもの

     王国公共記録院が正式に開院してから三日後、王都はまたひとつ、大きな節目の日を迎えていた。 朝早くから大通りには王国旗が掲げられ、石造りの家々の窓辺には祝いの布が垂らされている。広場へ向かう道には花が飾られ、王宮の方角へ歩いていく人々の姿が絶えなかった。 ただ、その表情は一様に明るいわけではない。 期待している者もいれば、不安を隠せない者もいる。新しい王に希望を託す者もいれば、王家そのものをまだ信じられない者もいた。 今日、国王が退位し、第一王子が新たな王として即位する。 それは祝うべき出来事であると同時に、王国がこれまでの在り方から本当に変わるのかを、多くの民が見極める日でもあった。「……すごい人ですね」 王宮へ向かう馬車の窓から外を眺めながら、リリアは小さく呟いた。 通りには地方からやって来たらしい人々の姿も多い。家族連れもいれば、杖をついた老人もいる。「王が替わるからな」 隣に座るレオンが答える。 今日は彼も正式な礼装を身につけていた。濃紺の生地には銀狼公爵家を示す銀糸の刺繍が施され、胸元には古い封印の紋章ではなく、ノクスとの新しい契約を示す銀狼と藍色の月の意匠がある。「みんな、祝うために来ているんでしょうか」「それだけではないだろう」 レオンは窓の向こうへ視線を向けたまま言った。「新しい王が何を言うのか、自分たちを見ているのか、それを確かめたい者もいる」「そうですよね」 リリアは静かに頷いた。 新しい王が即位したからといって、王国の傷が消えるわけではない。 セドリックが起こした事件で家族を失った者たちはいる。 黒霧によって人生を変えられた者もいる。 銀狼公爵家が長い間背負わされてきた犠牲も、王家が隠してきた記録も、明るみに出たからといって終わるものではない。 むしろ、知ったからこそ怒る者もいるはずだ。「陛下になるの、緊張しているでしょうね」 リリア

  • 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む   第六十二話 残された名前と、託す言葉

     王国公共記録院の開院日、王都にはまだ朝霧が残っていた。 白い石造りの建物は、王宮から少し離れた場所に建てられている。あえて王宮の敷地内ではなく、市井に近い位置が選ばれたのは、この施設が王家の所有物ではないことを形として示すためだった。 正面には王国の紋章ではなく、開かれた本と小さな灯火を組み合わせた新しい記章が掲げられている。 忘れられたものを探し、残されたものを守り、必要とする誰かがもう一度辿り着けるようにする。 そのための場所だった。 朝早くから多くの人々が集まっている。記録官や研究者だけではない。黒霧事件の被害者やその家族、行方不明になった者を探す人々、王家が公開した過去の記録を確かめたい者たちの姿もあった。 リリアは建物の前に立ちながら、静かに息を吐いた。「本当に、できたんですね」「ああ」 隣に立つレオンが答える。「随分と騒がしい場所になりそうだがな」「記録院ですから、それくらいの方がいいと思います」「静かすぎる記録院よりはましだ」 レオンの言葉に、リリアは少し笑った。 以前なら、記録というものは閉ざされた場所にあるイメージだった。 王宮の地下。 研究局。 許可された者しか入れない書庫。 王族にとって都合が悪ければ消され、人に知られなければ存在しなかったことにされる。 けれど、ここは違う。 少なくとも、違う場所にしようとしている。「リリアさん!」 背後から聞き慣れた声がして振り返ると、ユリウスがこちらへ駆けてきた。 髪は少し乱れ、目の下には明らかな隈がある。「おはようございます」「おはようございます……」 リリアは少し心配そうに顔を覗き込んだ。「寝ました?」「二時間ほど」「寝たうちに入りません」「でも大丈夫です! 今日だけは!」「今日だ

  • 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む   第六十一話 生きて償うという判決

     王都中央司法庁の大法廷は、朝早くから重苦しい静寂に包まれていた。 傍聴席にはほとんど空席がなく、王族や貴族、騎士、行政官、王国公共記録院の設立準備に携わる者たちだけでなく、黒霧事件や王宮研究局による実験の被害者、その遺族たちも数多く集まっていた。誰もが同じ気持ちでこの日を迎えているわけではない。判決によって少しでも区切りをつけたい者もいれば、どのような刑が下されても失ったものは戻らないと知っている者もいる。中には、被告がまだ生きているという事実そのものを受け入れられない者もいるだろう。 今日、裁かれるのは、かつてこの国の第二王子だった男――セドリック・アルベルトだった。 起訴された罪状は三十七件。違法な人体実験、誘拐、監禁、記憶操作、魔術による殺傷、黒鴉会を利用した犯罪行為、王宮研究局の不正への関与、そして最終的には、王都そのものを巻き込む大規模な儀式を行い、多くの人間を犠牲にしようとした。 そのどれを取っても、決して軽い罪ではない。 リリアは傍聴席に座り、法廷中央に設けられた被告席を見つめていた。隣にはレオン、その足元には小さな夜色の獣の姿をしたノクスがいる。少し離れた席には第一王子の姿もあった。彼は王族のために用意された特別席ではなく、事件の関係者として一般の席に座っている。 弟だから特別な場所から裁判を見守るつもりはない――そう本人が申し出たのだと聞いていた。 リリアは膝の上で組んだ手に、無意識のうちに力を込めていた。「緊張しているのか」 小さな声で尋ねたのはレオンだった。 リリアは少しだけ驚いて横を見る。「分かります?」「手が白くなるほど握っている」 言われて初めて気づき、リリアはゆっくり指を緩めた。「レオン様は平気なんですか?」「平気ではない」 あまりにも素直な答えだったので、今度はリリアの方が目を瞬く。「意外そうな顔をするな」「少しだけ」「俺だって人間だ」 足元からノクスの低い声が聞こえた。『その主張は時々怪しいがな

  • 月影の花嫁は銀狼公爵の運命を拒む   第六十話 王冠を受け取る覚悟

     朝の光が公爵邸の食堂へ差し込む頃、リリアは湯気の立つスープを前にしながら、向かいに座るレオンの顔を何度目か分からないほど見つめていた。 窓の外では、春の終わりを告げるような淡い風が庭木を揺らし、その合間を縫うように月白花の花びらが舞っている。いつもと変わらない朝だった。焼きたてのパンがあり、卵料理があり、使用人たちの静かな足音が廊下から聞こえてくる。その穏やかさとは裏腹に、リリアの胸の内には朝から薄い緊張が張りつめていた。「いよいよ、明日ですね」 リリアが口にすると、レオンは手にしていたカップを静かに置いた。「ああ」 それだけの返事だったが、彼もまた同じことを考えていたのだろう。 明日、セドリック・アルベルトに対する最終判決が言い渡される。 長く続いた裁判では、黒霧事件をはじめ、王宮研究局で行われた人体実験、誘拐や監禁、記憶操作、魔術を利用した殺傷、そして王都全体を巻き込もうとした大規模な儀式について、多くの証言と記録が提出された。被害者や遺族だけでなく、当時研究局に所属していた者、黒鴉会に関わっていた者、王宮内部の関係者までもが証言台に立った。 何より、セドリック自身がほぼすべての罪を認めていた。 もはや、彼が罪を犯したか否かが争われているわけではない。 問われているのは、その罪に対してどのような刑が下されるのかということだった。「眠れましたか?」 リリアが尋ねると、レオンは僅かに眉を上げた。「なぜ俺に聞く」「何となくです。昨日、いつもより遅くまで起きていたでしょう?」「書類を読んでいただけだ」「本当に?」「お前こそどうなんだ」「私は……」 そこで言葉に詰まった。 レオンがすぐに気づく。「眠れなかったのか」「全然というほどではありません。でも、何度か起きました」 昨夜、目を閉じるたびに裁判で聞いた言葉が蘇った。 セドリックが自分の罪を認めた時の声。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status